22年。

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先日、22年間共に過ごした亀が亡くなりました。書き残すかどうか迷いましたが、私にとって書くことは生きることとイコールだし、この経験や感じたことを同じ境遇に至った他の方の役に立てれば…と思って書きます。

もっとできることがあったし、もっと一緒にいられたはずだし、あの時もっと早く病院に行けば、先生の言うことを鵜呑みにせず手術をしておけば、もっと毎日話しかければ、もっと大事にすれば…と後悔と申し訳なさでいっぱいになります。もっと一緒にいられたはずなのに、あっけなくさよならしてしまって、本当に本当にごめんなさい。

小学5年生の頃になんとなく飼いはじめて、まさかここまで長生きするなんて思わなかったけれど、距離が近すぎて大事にしきれなかったように思います。近すぎぎて大事にすることに照れがあって、いつまでも生き続ける気がしていたし、今までも何度か体調不良はあったけれどその都度元気になっていたから今回も大丈夫、そんな風に高をくくっていました。でもあっけなくいってしまった。

手のひらより小さかった亀も、部屋に出すと猛ダッシュして驚かせてきた亀も、散歩するといつも私の部屋に来てくれた亀も、いつも日向ぼっこして気持ちよさそうにしていた亀も、ご飯が欲しくて水面をぱしゃぱしゃさせていた亀も全部覚えてる。太いしっぽもむちむちのおしりも立派な甲羅も全部覚えている。動物病院の先生に「この子は優しい子ですね」と言われるくらい、何にも文句を言わなくてどんな状況でもいつでも泰然自若に生きていた姿も全部覚えている。

一緒にいてくれて本当にありがとう、ときちんと伝えられなかったことが本当に心残りです。なぜもっと大事にしなかったんだろう。本当にかわいくてかわいくてかわいくて、もっと長生きできたと思うけれど、それでも22年も生きてくれてありがとう。これからも毎日想います。


当たり前なんて、永遠なんて本当にないんだから目の前にいる大事な人やものは大事にしたい。大事な存在こそ照れがあって大事にしきれないけれど大事にしたい。そして永遠なんてないからこそ写真を撮ること。今回生きていた頃の亀の写真を自分が撮っていてすごく救われたし、昨年秋にカメラマンさんに写真を撮ってもらっていたことも本当に良かった。

生と死というのは本当に隣り合わせなんだと感じました。いつ死ぬか、命が途絶えるかなんて本当に分からないからこそ、一日一日のうれしい楽しいを積み重ねること。最後には骨になってしまうのであれば、見栄や承認欲求も本当にどうでもいいなと思いました。自分がたのしくて、相手にも喜んでもらう、その積み重ねだけで充分なのでは。

あと大事な人とはできるだけ一緒に時を重ねたい。アトリエを持ってから自宅で過ごす時間が減って亀と一緒にいられる時間が減ったのも後悔の一つです。


泣いたって何も変わらないことも分かっています。でも心がぺしゃんこにつぶれてしまって、感情や理性を超えた所で涙が出てしまう。今はそれでいいと思っています。でもそれでも…亡くなった直後と比較すると涙を流す時間が減っていて、それもすごく寂しいです。このまま忘れていってしまうんだろうか。泣くのも辛いし、涙が出ないのも辛い。どちらにしても悲しみは癒えることはないし、癒やす必要もないし、逃げる必要もないし、この悲しみとともに生きていくしかないんだと思います。


途方もない死を目の前にして、それでも救われたことがいくつかあるので書きますね。

まず動物病院の先生には本当にお世話になりました。私たちの気持ちに寄り添い、状況を冷静に判断し、最後まで力を尽くしてくれました。先生のやさしく誠実な対応にどれだけ慰められたか分かりません。

そして夫。彼も辛いのにとにかく私の気持ちに寄り添い、寄り添い、寄り添い。あたたかいご飯を作って食べさせてくれて、ただただ悲しみに寄り添ってくれる。無駄な言葉は一切発さない。彼の献身的な寄り添いがなければ多分、もっと、絶望していたと思います。彼との関係性の変化についてもいずれきちんと書きたいと思っているのですが、相手があることなのでなかなか書けなくてすみません。でも私は彼と結婚できてよかったと心から思っています。

もちろんお仕事にも。目の前にやるべきことがあるのはすごく救われるし、今回の経験を機に撮れるもの、書けることが変化していくように思います。


どんなに辛くても朝は来るし、お腹は空く。私たちは生きていかないといけない。生きていく中で私は何を残していけば良いのか、どんな生き方をすれば良いのか。波のように去っては訪れる悲しみから逃げず、大事に向き合いながら、私はまた少しずつ歩んでいきたいと思います。生きるってきれいなことだけじゃないですね。悲しみや後悔とも向き合って、それでもそれでも、と。